茅ヶ崎まで   佐藤文香

 早稲田大学時代の恩師、雲英末雄先生がお亡くなりになった。  雲英先生は大学1年のときに広域科目の俳諧、3年では近世の演習で教えてくださっただけでなく、お会いすると「ちゃんとやってるか」とか、「最近お父さんに会ったよ」、「佐藤さんの俳句をどっかで見たけどどうももうひとつだ」とか仰って、気にかけてくださった。私も『ワセハイ』や『早大俳研』が出来ると持って行った。研究室に行くと、見せてほしいと言わずとも、虫食いの古書をどんどん見せてくださった。変体仮名は読みにくかったが、絵を見るのは楽しかった。ただ、いいタイミングで研究室を出るのは難しかった。  今年6月、先生に句集をお渡ししようと大学に行ったらご病気と聞き驚いて、ご自宅に句集をお送りした。そのときはすでに退院して療養中とのことで、すぐにお返事をくださった。いただいたお手紙は、
「拝復 このたびは御第一句集『海藻標本』御恵贈賜わり、有難うございました。何よりもうれしく大慶に存じます。」
と始まる。いつもお話しするときはすぐ茶化したりいらないことを言ったり(俺はお前のお父さんも教えたんだ、などなど)する先生が、改まった言葉で丁寧に書いてくださったことが、一人前と認めてくださったように思われて嬉しかった。
「頬杖や宇治金時に底の見え」「夕刊に凍蜂の死を包みけり」「あけがたの詩集に頁毎の冷え」「目刺されて目刺の口の大きさよ」「己が身を日傘の内に籠めて逢ふ」
を挙げてくださった。拙句のことながら、俳句的な滑稽を良しとしつつも、どこかロマンチストなところのある、雲英先生の好みがよく出ている選句だと思う。「目刺されて」の句が、「折々のうた」に掲載されていたことまで覚えていてくださったのには驚いた。
 最後6行はご自分の体調に関してで、
「危機的な状況を脱し、かなり回復しております故、御放念ください。」
とあったので、また大学に復帰なさって、あの古書店のような研究室で、大好きな江戸の書物に囲まれて研究をなさっているものと思い込んでいた。  その後また調子を崩されて2度目の入院が長引いたとのこと、それでも9月の初めに退院なさった、その矢先、急なことだったらしい。  そういえば今も仲良くしてくれているあずさちゃん・はなちゃん・かなほは、みな雲英先生の演習で一緒だった。昨夜かなほが電話で「雲英先生がかわいすぎて、授業で寝なかった、あれが初めてだ」と言っていた。しかし寝ていても怒られないので、私は人の発表中は寝て、先生が話し出すと聞いていた(かなほと私とは驚くほど授業で寝る学生だった。が、不真面目だったわけではない)。特にクラスで飲み会をすることもなかったが、なんとなく居心地のいい授業だった。
 何だか大学時代の「大学時代らしい思い出」の、大きな部分に穴が開いてしまったような気がした。否、それは思い出なのだから、変わらないと思い直した。変わってしまったのは、私の未来のほうだ。大学に遊びに行けば雲英先生が居て、相変わらず目を細めて笑って、俳句やその他どうでもいい話をしてくれるはずだった。雲英先生と関わった皆が、そう思っているに違いないのだけど。
 そして今日、雲英先生とお別れしたという、新しい、悔やまれる思い出がひとつ増えた。もう先生は、研究棟の5階に居ない。32号館の教室にも。

菊の白へ手元の白き菊を足す  文香