「解決」と「答」   上田信治

岸本尚毅『高浜虚子 俳句の力』評 「解決」と「答」   

「天為」2011年6月号


 

自分がホスピスに入るなら、壁に虚子の何の変哲もない句を掛けてそれを眺めていたい。そういう話から、岸本氏の新評論集は始まります。


その「虚無を飼い慣らす」と題された一節には、ホスピスの枕頭、人生のモルヒネ、不治の病を宣告されたら、というようなことばかり書いてある。


そこで著者は、この虚子論が「これから(晩年まで)自分は俳句をどうやって書いていこう」という自身の問いに導かれて進んで行くことを、確認しているように思われます。


作り手としての問いが、俳句原論とも呼ぶべき深さへ向かうことにおいて、本書『高浜虚子 俳句の力』(以下『力』)は、著者の評論集としての前著『俳句の力学』(2008年 ウエップ)と、よく似ています。


前著『俳句の力学』(以下『力学』)は、いくつかの非常に魅力的なアイディアを提示しました。


季題を演じること、季題を客とすること、写生について「内言語の共有」について。それらは、岸本氏の実践に裏付けられたノウハウであり、またそれ以上に、読者を誘惑する謎でもありました。


作家がその思索の底から持ち帰った概念は、たしかに真理らしい色かたちをしているのですが、同じ深さを経験しない者にはその真価は分からないのだろう、と思わせるものでもあったわけです。


前著の謎に、本書はある意味、答と呼べるものを示しています。


元になった文章の発表時期はさまざまで、もとより二冊の本は、問題編と解答編ではありません(『力学』より先に『力』が出るはずだったとも聞きました)。しかし、岸本氏の前に虚子の句がある以上、氏はいかなる問題についても「虚子の句が答であるとしたら、その答とは何だろう」という理路をたどって考えざるをえない。本書が「解決」と「答え」の書になることは必然でした。

 

 サルビアの枯れし夜空を花火飛ぶ  岸本尚毅『鶏頭』


周知の通り、俳人岸本尚毅は、優れて感覚的な写生句の書き手として出発しました。


第一句集からほぼ十年を経て、氏は評論「句集を読む」第九回「虚子と芭蕉(素描)」(「天為」1997年)の文末に「以上は「感覚に頼らない叙景」という筆者の作句上の関心にもとづく素描である」と書くに至ります。


氏によれば「感覚」とは「目や耳に入ってくる視聴覚的要素」であり、年齢と共にそれは「なまる」し、詠める範囲は早々に「詠み尽く」されてしまうらしい(岸本尚毅インタビュー「週刊俳句」2010年12月5日号~19日号。以下「週俳」インタビュー)。誰よりも感覚的であった作家の「感覚」に代わるものとは何でしょう。


答として見出されたのは、たとえば、こういう句です。

 

 神にませばまこと美はし那智の滝  高浜虚子

 石ころも露けきものの一つかな

 わだつみに物の命のくらげかな


三橋敏雄は、それを「自然の一部でもある人間存在における、極めて普遍的な感情の確認を目に見えるかたちをもって行い尽くすもの」(朝日文庫『現代俳句の世界 高浜虚子集』解説 1984年)と呼び、岸本氏は「普遍的な観念」と呼びました。


写生は、主観の表出をいったん抑圧することに主眼を置く方法ですから「感覚」的写生の対義語は「観念」的自己表出ということになるのかもしれません。ただし、それは「普遍的」でなければならない(らしい)。


ここに、氏の「写生」についての言葉を重ね合わせてみます。「俳句における写生の本質は、作者が描写することではなく、読者に想像させること」「写生は退屈な修行ではなく、むしろ読み手の心の中にある想像力というカンバスに自由に絵を描く愉快な営みなのです」(『力学』p82ー83)。


人は、あらゆることを身に引きつけて想像し得るのですから「想像力というカンバス」に書かれるのは、感覚に由来するものばかりとは限らない。では「観念」は、どう想像されるのでしょう。


〈神にませばまこと美はし那智の滝〉という言葉のかたまりに出会うとき、読者は、その言葉が自分の口から(心から)出るかのように、その体感を「想像」し心に描くでしょう。想像させられなければ句の負けで、するりと入り込めたら句の勝ちです。


その時その観念は、あらかじめその人の心の中にあったかのように、読者のものになる。これは前著において「内言語の共有」として描写されているプロセスです。


俳句の言葉が指示する内容は、むしろ様々であっていい。重要なのは、それが人の想像力を駆動するきっかけになることです。そのことが最も鮮明に現れているのが虚子の句であり、それこそ本書の示唆するところであると思われます。


本書では想像力について「単純化と具象化という相反しがちな傾向を結び合わせるキーワードが「想像力」だと思います」(『力』p202)とも語られています。想像力への注目は、俳句にとって、理論実作の両面できわめて生産的であると思われ、これは、二冊の評論集を通じての、著者の貢献と言えるでしょう。


では、前著『力』のもっとも謎的な概念である「内言語の共有」について、虚子の句はどう答えたでしょうか。

 

 十六夜のきのふともなく照しけり 阿波野青畝

 芋の影連山影を正しうす     飯田蛇笏

 旗のごとなびく冬日をふと見たり 高浜虚子


作者の言う内言語が共有される句とは、たとえばこのような句であるらしい。


「虚子の句からは虚子の肉声は感じられません。私の中に入ってきた虚子の句は、虚子の声ではなく、私の声で聞こえてくるのです」(『力学』p198)


「(読者が)自分の中からその句が涌いてきたような感覚を持てるかどうか、が一句の成否を決めるのです」「逆に作者の「内言語」を遮断した句の方が、読者の内言語として受容されやすいのではないでしょうか」(同p199)。


内言語の問題領域は、本書において主に「諷詠」というテーマのもとに、扱われます。


「これら三句の特徴は、こなれた口調、なめらかな言葉の運びです。言葉の調子の良さが、風景を生き生きしたものに見せています」(『力』p68)


「虚子の句は、写生と諷詠、描写と詠嘆、という二つの異なる言葉の働きを縒り合わせたものです」(同p213)


「空洞のような言葉が、洞窟に反響する声のように一句を大きく響かせます」(同p211)。


「俳句の力は俳句の言葉と人々の心の中にある普遍的な観念とが共鳴するところにあります」(同p122)


俳句が「響く」「共鳴する」という形容が、繰り返し使われています。


どう響くかといえば、読者の胸の内に、まさに内言語として響くのだとしか考えられない。氏はそのことを「自分の声でうたう」のではなく「俳句を鳴らす」(「週俳」インタビュー)とも表現するのですが、俳句を鳴らすとは、想像力を通して読者を鳴らすことに等しい。「うたう」のだとすれば、主客がともに「うたう」のでしょう。そこに「調子」の問題は浮上してくるし、自分一人がうたうことは読者の邪魔になるので「内言語の遮断」も必要になる。


ここに至って、虚子の「諷詠」は「内言語の共有」を解決してしまったように見えます。


謎が解かれるというのは、実も蓋もないことで、なにしろ本書の結論部分をつないでいくと、俳句は、平凡陳腐な内容を、練れた表現で、調子よくうたえばいい、ということになってしまう。


俳句とはそれだけのものでしょうか。


いや、そんな苦情は、岸本氏が「俳句とは何か」を論じていると思うから、出て来るのであって、初めから、氏は「自分はこう考えると俳句が書きやすい」ということしか言っていません。二冊の論集をもって、著者は、俳句の原理に急接近し、また離れて行ってしまったようです(たぶん、これ以上掘っても、誰も得しないと思われたのでしょう)。


そこで、著者にご苦労様と思われることを承知で「観念」と「感覚」について、もう少し考えてみたい。


「虚子が詠むのは「日常」であって、「日常の哀歓」ではありません」(『力』p50)という表現は、本書の「上手く言えた」(「週俳」インタビュー)箇所の一つだそうです。


「日常の哀歓」とは、いわゆる普通の感情一般のことでしょう。とすれば「日常」とは、そこから感情を抜くと見えてくる「人間存在」(と三橋敏雄の言うもの)の謂でしょうか。「日常の哀歓」と「日常」、「人間」と「人間存在」、「普通の感情」と「普遍的感情」の間にレベルの差があるとしたら、後者は、普通の人の日々の暮しから、隠されているものです。

 

 その辺を一廻りしてただ寒し 高浜虚子

 現れて消えて祭の何やかや  岸本尚毅『感謝』


このような句に接して、多くの人が、ああそうだな、そういうことはあるな、と思うでしょう。けれど、その納得に対応するような「感情」あるいは「観念」を、あらかじめ持っている人は(作者をふくめて)いないのではないか。それは俳句の言葉によって、初めて露わにされるものです。


〈空をゆく一とかたまりの花吹雪 素十〉という句について、著者は「本当は「一とかたまり」ではなかったかもしれません。しかし「一とかたまり」と言われれば、本当に「一とかたまり」に見えるのです。「見せるように書けば、書いたように見える」ところが俳句の面白さです」(『力学』p82)と書きます。


ならば〈一廻りしてただ寒し〉も、同様の、作者にも思えていなかったことを「かのように」「思わせる」言葉の働きによって、成立しているのではないか。


さらに言えば、岸本氏の〈サルビアの枯れし夜空を花火飛ぶ〉のような句を、人が感覚的だと感じるのは、内容が視聴覚的だからではありません。その背後に、鋭敏に働いている何かを指して「感覚」と言うのでしょう。


つまり、著者が便宜的に反対概念として論じた「観念」と「感覚」の背後には、おそらくまだ名付けられていない一つのものが休みなく働いている。


「無限の中の一点として日常の些事を描く」(『力』p15)〈卓上に手を置くさへも冷たくて〉〈映画出て火事のポスター見て立てり〉のような虚子句に「無限」という感じを呼び込む働きが、それです。それがなければ〈人生は陳腐なるかな走馬燈〉のように「あれは句自体も陳腐ですからねえ」(「週俳」インタビュー)となってしまう(つまり俳句は「それだけのもの」ではない)。


虚子の場合、その働きを担うのは、岸本氏が本書で論じた「無感動を装った無表情」「単純化」「沈黙の力」などでした。


では、俳人岸本尚毅の場合はどうでしょう。

 

 茂りつつ或いは虫に喰はれつつ  岸本尚毅『感謝』

 浅草に病院のある冬景色

 星出でてまたたきも無き出水かな


虚子句の特質を引き継ぎつつ、これらの句の表情が、それほど「のっぺり」もしていないのは、どこか口元に笑いを堪えているようなところがあるからで、それは、それこそ、それぞれの作家の「肉体と不可分一体」の部分から生じる働きなのでしょう。